追悼特集表紙
大学時代の村山実さん

1957(昭和32)年の秋季リーグ前の村山さん。撮影時に30分遅刻し、ほかの選手をムッとさせたという(前川洋さん提供)

真っ向勝負の男・村山実伝説



 阪神タイガースに入団後、村山実さんは「ザトベック投法」「機関車投法」とファンを熱狂させた豪快なピッチングは大学時代でも数々の逸話を残した。
 昭和31年の全日本選手権前には、エースの中西勝己さん(当時3年)が中退し、毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団。村山さんの出番が回ってきた。当時4年生でマネージャーだった田村壌夫さんは「あれよ、あれよと(村山に出番が)回ってきたと思う。村山は力はあったが、未知数だった」と振り返る。
 当時の新聞によると、選手権に乗り込む直前、長野の飯田ではった2週間の合宿で、村山さんは速球並みのスピードでブレーキのかかった“鋭いカーブ”を会得、投球の幅が広がったとされる。
 関西六大学野球新人戦ではノーヒットノーランも成し遂げた。良きライバルだったというピッチャーの前川洋さんは「やはりムラ(村山さん)はストレートがすごかった。いつも前を向いて、直球勝負だった」。
 先輩ピッチャーで現郡山高校監督の森本達幸さんは「(村山さんの)印象はストレートばかりで変化球は投げない。とにかくストレート、何回打たれても、連投でもストレート。向こう気が強かった。そりゃすごいよ。スピードガンは無かったが、150キロは出ていたよ」と当時の村山さんのすごさを語る。実際、村山さんはプロに進んだ後「今よりも大学2年生の時が(球は)一番速かった」と森本さんにこぼしていたという。
 練習からも村山さん野球への情熱がうかがえる。ピッチング練習では当時野球部にいたピッチャー26人全員が学年の順番で投げていた。村山さんの投球練習が始まると、後輩にマウンドをなかなか譲らなかった。森本さんが「(後輩に)代わったれ、譲ったれ」というと、「もうちょっと投げさせてください」と決まって答えたという。
 森本さんは「代われ」の言葉を何回も言った覚えがあると苦笑。左ピッチャーだった前川洋さんは「ムラと並んで投げていて、2人とも毎日、600球ぐらい投げいた。よくお互いに顔を見合わせ、『もうやめよっか』といって練習をやめた。練習熱心でおちゃめな所もあった」と当時のエピソードを語る。森本さんによると「いざユニホームを脱ぐと細かい神経で思いやりがあった」という。
 森本さんは「村山のピッチングは6回までストレート、7回からもこれでもかとストレートだった。最後までストレートを投げるうちに、いつの間にかスピードが落ちなくなった」という振り返る。
 大学選手権2戦目では投手、打線とも一級品の選手を擁する早稲田大と対戦した。村山さんは持ち前の速球とシュート、そして、数々のエピソードを持つ謎の“鋭いカーブ”で強力クリーンナップを打ち取った。村山さんは、後に中日ドラゴンズに入団した主軸の森徹さんから3三振奪っている。当時サードを守っていた原田享さんは「(村山のピッチングに)きりきり舞いだった」と話す。
 「東京に負けてたまるか」(森本さん)「焦点は一本、東京を倒す」(原田さん)。選手全員の気迫がストレート一本で真っ向から勝負する村山さんの一球に乗り移ったのかもしれない。【記事中の肩書きや名前は記事が掲載された1998年当時のものです】