追悼特集表紙
大学時代の村山実さん

1957(昭和32)年の秋季リーグ前の村山さん。撮影時に30分遅刻し、ほかの選手をムッとさせたという(前川洋さん提供)

けがからの復活



 エース村山は全日本選手権3試合を1人で投げぬき関大に初の栄光をもたらした。その後、村山投手は肩の故障などけがに泣かされたが、2年間のブランクの末、完全復活を遂げる。
 「力投がたたって内臓に負担がかかったんじゃないのか」(難波昭二郎さん)。選手権後、村山さんは肝臓の具合が悪く1年間病院に通う。翌年から村山さんは肩を痛め登板回数も減る。当時の村山さんの姿を梅田寿男さんは「(村山さんは)体治すのに一生懸命だった」、竹内勝一さんは「しゅんとして練習していた。でも村山はけがでもずっと走っていた。みんなで励ましていた」と話す。村山さんの良きライバルで好投手と呼び声の高かった前川洋さんは「治療のため一緒に病院を探し回った」と当時を思い出す。
 初優勝の翌年、関大野球部はリーグ優勝を果たし2年連続で大学野球選手権に出場する。連覇を目指す関大は1回戦で近畿大を破り準決勝に進出。準決勝の立教大戦では、その後プロで活躍する長嶋茂雄さん、好投手・杉浦忠さんをはじめ、そうそうたるメンバーと対戦した。エースの前川洋さんが打たれ、惜しくも5-3で負けてしまう。この試合で本塁打を放った難波昭二郎さんは「せめて村山がいてくれたら…。村山も悔しかったやろう」と思いを語る。
 その後、村山さんは4年生で一華咲かせた。大学生活最後の秋季リーグ、今までのブランクを払しょくするかのように自慢の「ザトペック投法」で連投を重ねた。終わってみれば、全11試合中7試合でマウンドに立ち、すべて勝ち投手に。防御率は0.34で最優秀選手に選ばれ、春秋完全優勝を成し遂げた。
 「村山が華開いたのは大学2年と4年の最後」(西出佐夫朗さん)。「ザトペック投法」の村山さんは全力投球からか、大学時代は咲いては散る桜のようだった。しかし、難波さんは「体を長い間休ませていたからプロですぐ対応できた」と話す。大学時代、天と地を見た村山さんはプロ野球界に名を残す偉大な投手になっていく。【記事中の肩書きや名前は記事が掲載された1998年当時のものです】