追悼特集表紙
クリスマスパーティーでの村山実さん

冬季合宿中のクリスマスパーティーでの一コマ。左端が村山さん(昭和32年12月、前川洋さん提供)

盟友たちが語る“ムラ”



梅田寿男さん(センター)
 --選手権を制したときの感想は
 優勝した時、終わって力が抜けた。(試合を)やっている時は大変なこと。一回一回を終わらすのが必死だった。やっと終わったという気持ち。開放された苦しさと、喜びが交錯した。体がクタクタだった。
 --決勝で対戦した日大への対策は
 日大の監督が談話で「村山を打ち崩す」と言っていた。ムラ(村山さん)は連投していた、速球とフォークで勝負だった。(野球を)やっている時は必死。余分なことを考える余裕なんかなくて、野球に完全に打ち込んでいた。
 --村山さんはどんな選手でしたか
 ムラは2年生でフォークをマスター。「ズッシー、ズッシー」と重たい球を投げていた。ユニホームを脱ぐと、ものすごくいい人、好青年。仲間だった。けれども野球の負けん気は誰よりも強かった。
 --村山さんの投げた試合で印象深いのは
 関西六大学野球リーグで優勝を決めた対立命館大戦で延長15回をムラ一人で投げて1-0で勝った。全日本選手権終了後、全学生選抜チームとオハイオ州立大(米国)との対戦ではムラは14奪三振を奪って完投したのを覚えている。それで関西に村山ありとなった。全日本大学野球選手権(昭和31年)から大学4年の秋まで、ムラは肩を壊して試合で投げていないかった。その時、体直すのに一生懸命だった。川村監督(関大)もほとんど使わなかった。

竹内勝一さん(代打の切り札)
 --選手権に臨む村山さんや野球部はどんな感じでしたか
 選手権のとき、村山は最高のできだったんじゃないかなぁ。フォークボールを投げられた。手が自分らの倍はあった。指が長かった。上田のリードも良かった。監督も名采配だった。村山を引っ張って、ほうらしたのが良かったんじゃないかな。チームも一致団結して、優勝、「打倒東京」に燃えていた。
 --日大戦で代打として送られた時の心境は
 試合前宿舎の日本青年会館で監督からチャンスが来たら使うからと言われていた。バットを振っていたら、監督が「いけっ」と肩をたたいた。ここで一発と気合を入れた。実際、打てるかどうか不安だったが、一球目から振りにいった。一、二塁間を抜け、コーチャーが回れ回れと肩を回すのが見えた。頭の中は真っ白で、ただ、がむしゃらに走った。それはもう、みんなに頭をたたかれた。監督さんに褒められたのが本当に嬉しかった。
 --選手権前の合宿はどのようなものだったのでしょう
 選手権前の合宿では、いつもの鬼監督が優しかった。みんなでお菓子を食べながらミィーティングしたの覚えている。
 --村山さんの印象は
 村山は真面目だった。よく走っていたし、実力もあった。一目置いていた。
 --全日本選手権後から4年生の秋までブランクがあった
 しゅんとして、練習していた。みんなで励ましていた。巨人からも入団の誘いがあったが、はじめから阪神に決めていたみたい。大学時代から意識が関東にあった、それで阪神に傾いたかもしれない。

西出佐夫郎さん(サード)
 --選手権で優勝した時の感想は
 優勝してほんとうれしかった。
 --選手権の村山さんはどうでしたか
 村山はフォークをほうっていた。プロでも杉下茂しか(フォークを)ほうっていなかった。けれども日大の相手ピッチャー、島津はええピッチャーやった。

田村壌夫さん(チーフマネージャー)
 --村山さんはどんな投手でしたか
 村山の指は普通の人の2倍あった。オハイオ州立大対戦したとき分かったんだけれども、日大の島津投手の方が長かった。僕らは裏方でユニホームを作っていた。エースの法元と中西の両エースが抜けて、あれよあれよと村山に出番が回ってきた。(村山は)未知数だったが、実力はあった。でも、あまり自信なかったんじゃないかなぁ。

原田享さん(サード)
 --選手権を通して村山さんとチームの調子はどうでしたか
 選手権で、村山は3連投でも球は速かった。準決勝の早大戦では、好投手に投げ勝ち、クリーンナップは三振のきりきりまいだった。村山に完全に手が出なかった。本人から選手権前の合宿で「先輩、フォークを投げれるようになりました」と直接聞いた。当時プロでもフォークを投げれたのは杉下茂だけだった。飯田での10日間の合宿では毎日300球ぐらいはほうっていた。それで、フォークをものにしたんじゃないの。早大倒して、自信もって決勝の日大戦に臨んだ。村山は打たれる気がしなかった。(優勝当時)村山の調子はよかった。1点リードすれば勝てる雰囲気、これでいけると、みんな自信があった。川村監督も、どの選手も打倒東京六大学と言っていた。
 --監督は村山さんをどう見ていまたしか
 関大には26人ピッチャーがいて、本格派が4、5人いた。村山が1年のときはコントロールが悪くて、何となくもの足りない感じがした。けれども、球はすごい速いやつだった。監督も東京を破るには破天荒のピッチャーが欲しかったんじゃないかなぁ。だから法元、中西の両エースがプロに入団したときでも村山をエースとして使ったんじゃないのか。春のリーグ前には四国、九州の社会人チームと10試合ぐらいオープン戦で対戦した。そこで監督は村山にチャンスを与えた。村山は制球難でよく潰れたけれども、監督は我慢してよく投げさせた。それが、本人にも自信につながったんじゃない。そして、春のリーグで開花した。コントロールがよくなった。やっぱり素質があったんじゃないのか。
 --プロに進む前の村山さんはどんな雰囲気でしたか
 村山は阪神からずっと声かけられていて、本人も阪神好きやったんちゃうんかなぁ。
 --当時の関大野球部を振り返ってどう感じますか
 優勝当時、関大に力のあるいい選手そろっていた。70パーセントはピッチャーの力だが、バックにいいのがいた。上級生から見て、大したやつがはいってきたなぁと思った。村山と上田のバッテリーは2年生の春から組んでいた。今は寂しいけど、関大のホームグラウンドだった日生球場にいつも1万5千人ぐらいは入っていた。関関戦になると、球場はいっぱいになった。とにかく関西六大学野球はよく入った。学生のほかに一般のファンが多かった。

難波昭二郎さん(ライト)
 --選手権の村山さんとチームの雰囲気は
 大学選手権では決勝の日大戦より早大戦に勝った方が大きかった。圧倒的に東京六大学が強かった。村山がよく投げ、(代打で決勝打を打った)竹内がよく打ってくれた。早大に勝ってから、村山は調子を上げた。相手投手・島津も本当に良かった。好投だった。なにがなんでも東京に勝ちたかった。チームが乗りに乗っていた。全国の大学が打倒、東京六大学を目指していた。村山は三振をとれるピッチャーでキャッチャー・上田ら、ほかにもいい選手がいた。打倒、東京六大学はチームの合い言葉で、倒せる認識はチーム内にあった。早大のピッチャーを打ち崩せる感じはした。村山のピッチングは追い込んだらフォークで、速球を打たなければ相手は打ち崩せなかった。速球に力があったからフォークが生きた。フォームまで力投型だった。もともとコントロールがないピッチャーだったが、スコップのように指の長い手で投げた。